2018年05月19日

洞爺湖・有珠山のなりたち3/3

13.大有珠たんじょう後の有珠山 この絵は嘉永噴火後の有珠山を想像したものです。大有珠、小有珠の溶岩ドームの間に小さなこぶ山が見えますが、それは文政噴火でできたと考えられている「オガリ山」です。大有珠、小有珠からから盛んに水蒸気が吹き上がっていました。後に銀沼と呼ばれる加工も小有珠の南側にありました。

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14.明治43年の噴火(西暦19010年) この噴火は有珠山の北側で発生し、次々と火口の位置を変えながら水蒸気爆発をくりかえし、2列、45個の火口を作りました、また、かたまった溶岩が地表を押し上げ小高い丘をつくりました。この山は「四十三山(よそみやま)」、または「明治新山」と呼ばれるようになりました。

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15.昭和新山のたんじょう(西暦1943〜1945年) 噴火前の半年間、小さな地震がくりかえされ、有珠山の東側の大地が盛り上がり始めました。多くのきれつや断層を作りながら盛り上がりの中心は北側へと移動しました。現在の昭和新山の真下あたりから噴火が始まり、次々と火口をつくりながら大地は急速に盛り上がりました。活動の終わりごろには固まった溶岩が地表を突き破り、真っ赤に焼けたドームが出現しました。これが「昭和新山」とよばれるもので、当時、壮瞥町の郵便局長をしていた三松正夫さんが活動のようすをくわしく記録しました。

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16.有珠山火口原内に新たな山を作った昭和52年噴火(1977〜1982年)

活動開始から噴火までわずか32時間という短時間の噴火でしたが、終息まで5年におよぶ息の長い活動となりました。噴火はいきなり激しく軽石や火山灰を噴き上げ、1万2千mもの高さに達しました。4度の大きな噴火と中小の噴火を交えた活動が1週間ほど続き、その後は地震と火口原の盛り上がりが中心となりました。3ヶ月後から中小の水蒸気爆発やマグマ水蒸気爆発がくりかえされるようになりました。その幹、小有珠の東側とオガリ山を結ぶ尾根状の盛り上がりが続き、役160mもの高さとなりました。これは地価に固まった溶岩が押し上がってきたためと言われています。活動は1982年3月まで続きました。小有珠南側には多くの火口がまとまって巨大な銀沼火口もできました。

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17.意外な場所で噴火した200年活動 有珠山の活動はまず地震から始まるといわれ、その観測で噴火場所があるていど突き止められると考えられていました。西山のさらに西側で噴火するとはだれも予想できませんでした。幸い避難も終えていましたので死者が出ることなくすみました。中小の水蒸気爆発をくりかえしながら、60ヶ所に及ぶ火口ができました。2つのグループら分けられ西山火口群、金比羅火口群と呼ばれています。活動は半年あまりで治まりましたが、西山火口群の中心部は最大80mほど大地が盛り上がりました。また、周辺広く大地に亀裂が入ったり、断層で多くの建物や道路などに被害がでました。(今回のシリーズ終了)

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posted by 管理人 at 11:26| 日記
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